贅沢な一人時間から見えた「つながり」の価値
日曜日、久しぶりに一人で買い物に出かけた。
自由に歩いて、好きなお店に寄って、誰の顔色も気にせずカフェで一息つく。
それだけのことが、なぜかとても贅沢に思えた。
楽しかった。ワクワクした。
そして、すれ違う人たち――カップルや家族連れ――を見ても、「いいなぁ」ではなく、
「みんな元気そうで、いいね」って素直に思えた。
ひがみじゃなく、本当にそう思えた。
ああ、私の心、今はちゃんと満たされてるんだなって気づけた。
心からそう思えたことに、小さな感動を覚えました。
でも、帰宅してからふと、思った。
「やることないな」
「誰かと喋りたいな」
「……ちょっと退屈かも」
どんなに楽しい“ひとり時間”でも、1日あればもう十分だなって感じた。
なぜなら私は――誰かと一緒にいたい人だから。
もちろん、話すことがなければ一緒にいるのがしんどくなる。
でも、ただ「同じ空間にいるだけ」でも落ち着ける人がいたら、それが一番幸せかもしれない。
喋らなくてもいい。
ただ一緒にいる時間に、安心感がある関係。
それが、私が求めてる“つながり”なんだと思う。
誰かのために動く喜び、そして自分を満たすこと
過去に「この人に尽くしたい」と思えた人がいる。
それは、私に優しくしてくれた人だった。
そこには感謝があって、お返ししたい気持ちがあって、なにより「自分の存在が、誰かの役に立てる」ことが嬉しかった。
私は“誰かのために動くこと”に幸せを感じる人間なのかもしれない。
でも、「誰かのために動けるくらい、まずは自分の心に余裕があること」が必要だと、今回のひとり時間で気づいた。
子育て中の友達が言った「一人の時間がほしい」という言葉。
それを聞いたとき、「私も、そんなふうに言えるくらい誰かのために動きたい」と思った。
でも同時に気づいたことがある。
みんなが同じように幸せを感じるわけじゃない。
「私はこうしたい」も、「あなたはこうしたい」も、どっちも正解。
だからこそ、自分の価値観を誰かに押し付けるようなことはしたくないなって思った。
私が本当に欲しい「無理しない関係」
ひとりで考え事をしたい時以外、私は基本的に人と一緒にいたい。
でも、疲れる関係じゃなくて、静かに寄り添える関係がいい。
心配されすぎても息が詰まるし、放っておかれすぎても寂しい。
ワガママみたいだけど、どちらも本音。
ひとりの時間って、たしかに大事だけど、疲れる関係ではなく、静かに寄り添える関係がいい。
私にとっての幸せは、「無理せず、頑張らず、ただそばにいられる関係」。
尽くしたいと思える人がいて、そこに感謝があって、やることがなくても一緒にいたいと思えるような時間。
そういう時間が増えていったら、きっと私はもっと、自分のことも、他人のことも好きになれると思う。


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